横芝光町の養豚と町営東陽食肉センター

家畜 養豚 江戸時代、農家の庭先では耕運、運搬、採肥を目的として牛馬が飼育されていました。
 明治5(1872)年頃より、外国産の作物や家畜を導入し西欧の技術を取り入れた養豚が広まっていき、当町においても農家で豚が飼育されていくようになりますが、この頃一般住民の食肉需要はほとんど無く、残飯で飼える豚は主に採肥が目的となり、臨時収入として、家畜商に生体(生きたまま)で売却されていました。
 明治8年2月、東京に豚専門の屠畜場が開設され、各地に屠畜場が開設されるようになるが、設備不十分により衛生上不備なところが多かったため、県は指導を強化して、明治43年3月、県内に34ヶ所あった屠畜場を10屠畜場を残してすべて廃止させました。
 これを察知した東陽村伊橋武成村長は、先見の明を働かせ、、明治43(1910)年9月に宮川に東陽村営屠場(昭和43年に移転、現在の町営東陽食肉センターとなる)を完成させます。これにより、これまで近隣の屠畜場に持ち込まれていた家畜が、当屠畜場に持ち込まれるようになりました。
  この時代の豚肉の流通は、問屋が屠畜、解体をして仲買人に売り渡し、仲買人は枝肉(二分体)や部分肉(四分体)の形態で小売店や加工場に売り渡す形式をとっており、解体の副産物として出るもつなどは、日持ちしない為、廃棄されるか、屠場に携わる一部及び近隣の住民に食されるようになりました(当時はポリ袋のようなものもなく、住民は鍋をもってもつをもらいうけ、各家庭で味噌や塩、醤油などで味付けし煮込み食すようになったのが、当町のもつ鍋、もつ煮の始まりであると思われます)
 その後、昭和になり、太平洋戦争中及び戦後の農政の重点は主食となる米・麦・さつまいもの増産となり、当町ではさつまいもから澱粉をとる工場ができ、この工場からでる澱粉粕は豚の飼料になり、当町及び近隣では豚の生産が徐々に増えていきます。
 昭和24年頃になると、主要穀物の生産が需要を満たせるくらい高まり、国民の食生活の向上を図るべく、畜産振興に力が入れられ、豚の飼育数が増加し、昭和29年には役肉牛と豚がほぼ同数となり、現在では約1万頭の豚が当町で飼育されています。
 千葉県は豚肉の出荷量が、全国第4位、町営東陽食肉センターで処理される豚は、千葉県のみならず、首都圏の食卓を支えているのです。                  
 参考文献:光町誌(現代編) 実用豚肉加工法 田中宏 大木市蔵著 駒場畜産協会

特産品「ひかりねぎ」

長ネギ ひかりねぎ 横芝光町を代表する農作物といえば長ネギです。昭和43年頃から麦の裏作として秋冬ネギの栽培が盛んになり、昭和47年には国の産地指定を受けました。昭和40〜50年代にかけて宝米地区や小田部地区の台地畑が整備されたことも、ネギ栽培を後押ししました。その後も栽培方法の改良が重ねられ、現在は春ネギ、秋冬ネギともに国の産地指定を受け、「ひかりねぎ」のブランド名で市場で高く評価されています。
 横芝光町役場前から海の方へ向かうと多くのネギ畑があります。そこで取れたネギともつの組合せは最高ですよ。

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